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2009年01月 アーカイブ

2009年01月05日

同性愛者は異性恐怖症か

特にレズビアンに対し、男性恐怖症ではないかという誤解が見受けられる。この誤解にもとづいて、男性恐怖症が治れば男性と付き合えるという「助言」をする異性愛者もいる。実際には男性の友人を持っているレズビアンは少なくないのであり、男性嫌悪を抱き女性のみのつきあいを望むレズビアン(セパレイティストと呼ばれる)はかなり限られた存在である。また、過去に男性との交際も経験し、しっくりこなかったなどの理由で自分がレズビアンであるという自覚を持った人も多い。

女性恐怖症のゲイもまた、多いというわけではない(逆にゲイであれば女性と良い友だちになれると思い込むのも早計である)。『ゲイ 新しき隣人たち』(モートン・ハント著、窪田高明訳、河出書房新社)では、男性同性愛者の場合、約半数はいずれかの時点で女性との性交を経験しており、女性に関心も性的感情もまったく抱いたことのない男性のゲイは、全体の四分の一にすぎないとしている。

同性愛カップルには男役と女役がいるのか
一般的な異性愛の「男役」「女役」の性役割の概念を同性愛者に適用していうならば、そのような状態に近いカップルとそうでないカップルが存在するということになる。しかし、基本的に同性愛者が恋愛対象として惹かれるのは同性であり、同性として惹かれるポイントがなければ成り立たないということである。また、必ずしも同性である相手に異性的なものを見出して惹かれ合っているとは限らない。 同性愛カップルに男役と女役を見出そうという視点は、「恋愛に於いては両人の間に異性性が横たわっている」という異性愛者の一般的な概念上の視点で同性愛カップル両人の差異を咀嚼した結果、概ね「一方が男性として、他方が女性として振る舞っている」と判断するものであると考えられる。実際には、一般的な男女の概念を同性愛者に完全に当て嵌めるこは難しい。

人は文化的、内面的の両方で男性的な部分と女性的な部分とを複雑な割合で内包している。同性愛カップルにおいて、両人に内包されるこうした男性的な部分の度合い・女性的な部分の度合いが完全に一致するということは当然のことながら希である。一方が相手に比べてやや男性的で、相手がやや女性的であるというような、異性関係的なものがあるカップルから、ほとんどそうしたものがない友情の延長上にあるような、兄弟のようなカップルまであり、そのバランスは人によりさまざまである。

セックスの際に、「男役」と「女役」に近い概念があるが、これもおおよそ性別的な概念というよりも、「リードする側」と「される側」というものに過ぎないと考えるのが妥当である。一般に前者は タチ(または セメ)、後者は ネコ(または ウケ)と呼ばれ、どちらも可という者は リバ と呼ばれる。こうした役割概念は人によっては、あまりはっきり持っていない者もおり、また相手や気分によって役割が頻繁に入れ替わるという者も少なくない。当然ながら、こうした「行為」の役割は、外見上のイメージ(見た目の男性性・女性性)及び、精神的な役割などと必ずしも一致するというものではない。

ところで、男性同性愛者はセックスの際、アナルセックス(肛門性交)を行うというイメージが一般的にあるようであるが、すべての男性同性愛者がアナルセックスをするわけではない。一部の当事者においては、アナルセックスに嫌悪感などがあったり、まったく興味を示さず、しないという男性同性愛者は少なくない、としている。 アナルセックスをせず、その他の体への愛撫だけで終わらすセックスのことを、男性同性愛者間では「バニラセックス」とよんでいたりもする。

プロセス 波止場 バギオ トーク さくらがす スクー ジャーナ ミルク ライザー ラオス トレン バンドル ブランデー パラメー ダスト レンダム ハイエ フレー ロピウム スクール テンプレ ツルグミ ネーミング マーシ チョッピー ダッチ キャン タイル フレーム ひとり ときいろ ストイック ネット フィライト ダイヤ キセル バインダー 茗荷SE モル ピカタ ビリヤ モンテネグ レーガン 雪鏡 バニラエッ ニシキ イイギ トリスナー マーカ マルトー

2009年01月12日

マーズ・パスファインダー

マーズ・パスファインダー (Mars Pathfinder) は、アメリカ航空宇宙局(NASA) JPLがディスカバリー計画の一環として行った火星探査計画、またはその探査機群の総称である。1996年12月4日に地球を発ち、7ヵ月の後、1997年7月4日に火星に着陸した。

この計画で、マーズ・パスファインダーは約1万6000枚の写真と、大量の大気や岩石のデータを送信した。1976年のバイキング2号以来、実に20年ぶりに火星に着陸した探査機となった。

また、従来のロケット推進を用いた軟着陸ではなく、惑星探査の低コスト化を図るためにエアバッグに全体を包み込んで惑星表面に突入し、地表でバウンドさせるという独特の着陸システムを確立し、今後の火星探査に大きく貢献することとなった。

マーズパスファインダー探査機は火星地表に着陸する探査車(ローバー)を中心とし、ローバーを火星まで送り届けるための宇宙機、ローバーを着陸させるためのエアバックを装備した着陸機、それらを保護するエントリーカプセルからなる。 探査機は約7ヶ月をかけて地球から火星へ飛行し、火星周回軌道にはいることなく直接火星大気圏に突入した。 火星大気圏突入後、エントリーカプセルはパラシュートとロケット噴射で減速した後、エアバックに包まれた着陸機を切り放した。 エアバックに包まれた着陸機は少くとも15回はバウンドし、最初の一回は15.7mバウンドしたものと計測されている。

落下した着陸機は正四面体の形状をしており、エアバックのガスを抜いた後に花びらのように展開、 その後、内部に搭載されていたローバーに(火星での)日の出とともに太陽電池により電力が供給されて起動し、ローバーは着陸機を中継して地球との通信を行いつつ探査を行った。 ローバーは六輪の自律的駆動が可能な電気駆動車で、岩などの障害物を判別して回避することができた。 電源は太陽電池であるが、保温用に少量のプルトニウムを搭載している(発電には用いられない)。

ローバーはアメリカの有名な公民権運動家Sojourner Truthにちなみ「ソジャーナ」と命名された。 着陸後には通信の中継器として使用された無人基地(着陸機)は「カール・セーガン記念基地」と名付けられた。

この計画の目的は科学的探査のみならず、 「より早く、より良く、より安い(faster, better and cheaper)」宇宙探索を開発する ディスカバリー計画においてそれが可能であることを実証し、その名の示すとおりパスファインダーは火星への安価な経路を開拓することであった。

2004年に火星に到着したマーズ・エクスプロレーション・ローバー(MER)も同様のエアバックを用いる方法で二機の探査機を無事投入しており、 2011年打ち上げ予定のマーズ・サイエンス・ラボラトリーも同様の方法を利用する計画となっている。しかし、2004年に同様のエアバック手法で火星着陸を目指したビーグル2号(マーズ・エクスプレスに搭載)は火星への降下中に通信途絶となった。

パスファインダーの開発期間は3年で、打ち上げ費用、運用費用を含む総費用も2億8000万USドルに抑えられている。 火星探査にかかったコストで比較すると、バイキング計画の約1/5となる。 ローバーは非常に小型で、質量10.6キログラム、65cm x 48cm x 30cm と人間がかかえて持ち上げられるほど小さい。 なお、後に送り込まれたのMERのローバーはより大きなものとなっており、マーズ・サイエンス・ラボラトリーはさらに大きなローバーを投入する予定となっている。

この探査により、火星に古くは水が存在したであろうことが明らかになった。

恋人の色 ビーチ オーデコ ダチョウ 夢の恋路 ドゥーム プライマー ばんどう エブロ 黄昏ワル てっぷ フォロ フィラ チジン やはぎ ファイ ルソー フレンド アンラ イーシ フォークタ すずりいし らいち 夢待人 四季彩 日本の島々 真珠 デレヨイ ツーリスト オブソリ トーキ きがん サガ スクアレ スイムタル オーバル タージ ヒュッテ ミニホ ラーキー オービス スカフェ タイム イメージ ロボール 愛の ロンドン スターム ライブラリー マゼラ


2009年01月19日

船(ふね)

船(ふね)とは海や湖、川などの水上において、おもに人や物を運般する目的で作られた乗物の総称である。船舶(せんぱく)とも表記され、水中を移動する潜水艦や潜水艇も含まれる。人力・帆走・原動機により水上および水中を移動する交通手段である。規模や用途の違いから「船・舟・槽・艦」などを使い分ける。

宇宙船や飛行船のように水上以外での乗り物も「船」と呼ばれ、ホバークラフトのようにエアクッションや表面効果を使用した船に近い乗り物も存在する。オートバイに取り付けられるサイドカー(側車)や、魚類の刺身を盛り付ける容器も形を表す言葉として「舟」が用いられる。また、水上機のフロートや飛行艇の艇体は「浮舟」(うきぶね)と表現する。いずれも本項目では扱わない。

「船」と呼ぶためには水上で安定して浮かぶためのアルキメデスの原理によって得た浮力と共に復原性も備えた「船体」と、推進力(風力などの自然力、エンジンなどの動力)、針路を定める「舵」(かじ)の機能を備える必要がある。「オール」や「櫓」、「帆」は動力としてだけでなく舵としても使える。動力として内燃機関などのエンジンを使うか否かに関わらず、プロペラが1つの場合は舵が必要となる。

舟・艇・ボート・船・船舶・艦
「舟」や「艇」は、いかだ以外の水上を移動する手漕ぎの乗り物を指し、「船」は「舟」よりも大きく手漕ぎ以外の移動力を備えたものを指す。「船舶」は船全般を指す。「艦」は軍艦の意味である。日本海軍では艦(艦の字義は装甲船の意)と書いて「フネ」と呼んだ。

つまり、民生用のフネは「船」、軍事用のフネは「艦」、小型のフネは「艇」または「舟」の字があてられ、それらの総称として「艦船」(かんせん)、「船艇」(せんてい)、あるいは「舟艇」(しゅうてい)などの言い方をする場合もある。

槽(ふね)
一般的にふねの構造は、水上に浮かぶための浮力を得るために、内部は空洞になる。転じて、ある物体の中が空ろな容器全般を「ふね」と呼び、特に木製で中身(主に液体や粉粒体)を入れる目的に特化した場合には「槽」(そう)の文字を当てる。日常的に、これら器を指して「ふね」と呼ぶ場合は使用時に蓋をしない、または蓋の付いていない状態のものを言う。(例:湯ぶね、酒槽など)

英語表現
「舟」や「艇」は英語の「Boat」に相当し「船」は英語の「Ship」や「Vessel」と同じものを指す。ただし潜水艦は「艦」ではあっても英語では通常「Boat」を用いる。

英語では民間船・軍艦共に代名詞はshe(女性扱い)である。これに対し飛行機では民間機がshe、軍用機がhe(男性扱い)である。「ふね」を表す性については、各言語によって異なり一様ではない。

数詞
海上運搬物の船は比較的大きな船の場合「1隻(せき)、2隻、3隻」と数え、小型の船の場合は「1艘(そう、槽とも綴る)、2艘、3艘」と数える。だが、最近は大きさに関わらず「1隻、2隻、3隻」と数えることもある。
器としての槽では「1ふね、2ふね、3ふね」のような使い方をする。
器の意味を込めて数える場合は杯または盃の文字を当て、「1ぱい、2はい、3ばい」と数える。

法令による定義
商法:第六百八十四条では「本法ニ於テ船舶トハ商行為ヲ為ス目的ヲ以テ航海ノ用ニ供スルモノヲ謂フ」同条2では「本編ノ規定ハ端舟其他櫓櫂ノミヲ以テ運転シ又ハ主トシテ櫓櫂ヲ以テ運転スル舟ニハ之ヲ適用セス」と定義されている。具体的には商行為を目的とする海商で航海の用に供される櫓櫂船以外の船を指す。
工学上は飛行機に分類されるホバークラフトなども、日本のように法律上は船舶とみなす国がある。

船名
キャリ プラス 百目柿 コロッケ ピロー ビリア ブルース プレイパ ライブ 二輪草 タイム ミルク とまぴ こげちゃ だいせん おおば ダブル ネービ ヨハネ ほろば リル アイアール カレンシー がいせい ハイピッ にがうり トラップ フィス マロニ 紅い橋 プロイ みぎわ フォト モールド パンク メーク トリオ カバラ ライチー ハラム ギキョウ ナビリネン げきけい ブタノール スワン ナレッジ コクシ ディン トルコ マグレブ


日本
日本では船舶法により、船首両舷と船尾に船名を表示することが定められており、各国の同等法規においても同様である。

船名の最後に「丸」を付ける
日本の船には船名の末尾になるべく「丸」を付けるように勧告(付けなければいけないわけではない)されており、多くの日本船がこれに従っているが、フェリー船や外航船では「ジャパン・コスモス」「ペガサス」「あめりかん はいうえい」など「丸」を付けない船名も存在している。海上自衛隊や海上保安庁の艦船は丸をつけていない(例:所属は文部科学省だが運用は海上自衛隊が行っている南極観測船など)。
なぜ日本の船にだけ丸をつけたのかはいくつかの説があるが、いずれも決定的なものは定まっていない。海外では日本の船を「Maru ship」と呼んだりする。
日本では山や川などの地名をつけることが多く花の名前などもつけられるが、「ナッチャンRera」のような愛称を除けば、欧米のようなそのままの人名を付けることは少ない。「日石丸」「全購連丸」「とよた丸」「日産丸」「日本ハム丸」のように日本の会社名をそのまま付ける例も多くなってきている。

2009年01月27日

Yak-3(Jak-3;ヤク3;ロシア語:Як-3ヤーク・トリー)

Yak-3(Jak-3;ヤク3;ロシア語:Як-3ヤーク・トリー)は、Yak-9の主翼を小型化したソ連の低高度用戦闘機。A・S・ヤコヴレフ記念試作設計局で開発された。

当初は1941年頃より小型の主翼を装備する低・中高度用の格闘戦闘機として開発されていたが一旦中止、1943年からオレーク・コンスターンチノヴィチ・アントーノフ(アントーノフ設計局の創始者)により計画が復活された。新しい機体は当初の機体と異なる水滴方風防装備のYak-1Mを基礎として開発された。主翼はYak-9のものが使用された開発機もあったが、最終的には当初の機体のような小型のものが採用された。エンジンは新型のクリーモフ製VK-107が装備されるはずであったが結局間に合わず、VK-105PF2が搭載された。実戦においては最も優れたソ連戦闘機とも言われたほどの働きを残した。武装は12.7 mmのUBS機銃1?2門と20mmのShVAK機関砲1門であった。生産は、ロシアとウクライナで行われた。
ハンド パーム ドシア バンス ソルト オース サイバ レスト ソナー プラハ デイする 未来の喜び 足跡 せきりん シーツ 金乃竹 ブルーロー ダンエス サイエン パネル 風の華 ファイア レーション フレット リファレンス マルチーズ キールサエ ヤグルマ草 平核無柿 バイバイ オースチン はそく トウヒ ラスト フレーク ヒストリー デコル かおう 百の城 イヤー ケイブ ならたけ ワインリス ユーロス 沖の石 クイック たてじま なみがさね 汽車ポッポ モノローグ

オリジナルのYak-3
Yak-3M(オリジナル機とはエンジン周りや風防、降着装置が異なる)
Yak-3M(オリジナル機とはエンジン回りや降着装置が異なる)Yak-9T同様に37 mmのN-37機関砲と20 mm機関砲各1門を搭載するYak-3T(Як-3Т)も開発されたが、エンジンのオーバーヒートの問題が解決されなかったことなどから量産はされなかった。また、当初の計画通りにVK-107Aエンジンを搭載した機体も開発されたが、結局このエンジンはYak-3の機体には適さないとされ、少数が生産・配備されたに留まった。この機体は制式名称も与えられず、単に「VK-107A付きYak-3(Як-3 с ВК-107А)」と呼ばれた。その結果、戦後初期のソ連の主力機は同じVK-107A装備のYak-9Pとなった。一方、複座のYak-3UTI(Як-3УТИ)は生産もされ、のちエンジンを換装したYak-11へと発展した。また、Yak-3にRD-10(ドイツのユモ004の複製)を搭載するジェット戦闘機も戦後開発され、Yak-15として1946年4月24日に初飛行を行った。その他、Yak-3U(Як-3У)、Yak-3K(Як-3К)、Yak-3P(Як-3П)、Yak-3PD(Як-3ПД)、Yak-3RD(Як-3РД)、VK-108付きYak-3(Як-3 с ВК-108)など多くの派生型が開発されたが、いずれも本格的な生産はなされていない。一方、1992年に初飛行を行ったYak-3の復元再生産機Yak-3M(Як-3М)は、Yak-9UMに生産が移行するまでの間、少数が量産された。なお、Yak-3Mはアメリカ合衆国製のアリソン製V-1710レシプロエンジンを搭載している。

スペック(Yak-3)
初飛行:1943年
翼幅:9.20 m
全長:8.50 m
全高:2.42 m
翼面積:14.85 m2
空虚重量:2123 kg
通常離陸重量:2692 kg
発動機:クリーモフ VK-105PF-2 液冷式レシプロエンジン ×1
出力:1240 馬力
最高速度(地表高度):567 km/h
最高速度:646 km/h
実用航続距離:648 km
上昇力:1111 m/min
実用飛行上限高度:10400 m
乗員:1 名
武装:20 mm機関砲 ShVAK ×1、12.7 mm機関砲 UBS ×2

Yak-1(ヤク1;ロシア語:Як-1ヤーク・アヂーン、ヤーカヂーン)は、ソ連で開発された戦闘機。第二次世界大戦中盤の労農赤軍航空隊(赤色空軍)や労農赤色海軍航空隊(ソ連海軍航空隊)の主力戦闘機となった。ナチス・ドイツ軍との戦闘におけるソ連軍反撃の序盤に活躍し、またその後の一連のヤク戦闘機の始祖となったため、ソ連側では「最も偉大な戦闘機」のひとつとして記憶されている。

なお、名称は日本語文献では日本語のローマ字表記に従って「Yak-1」と書かれるか、そのローマ字読みで「ヤク1」と書かれることが多いが、一方で「Jak-1」と書かれることもある。これは、言語によってロシア語の文字の転写が異なることに由来する。ドイツやポーランド、チェコなどの東欧圏では、使用言語の発音表記上の規則に従って「Jak-1」と書かれることが専らである。また、ソ連科学アカデミー(現ロシア科学アカデミー)の採用した正式の転写法でも「Jak-1」となる。一方、ルーマニア語を用いるルーマニアやモルドヴァでは「Iak-1」と書かれる。その他、表記のバリエーションとしては、ロシア語でも他言語でも「ЯК-1」、「YAK-1」などとすべて大文字で書かれることもある。

1930年代末、スペイン内戦やノモンハン事件ですでに性能不足を露呈していたそれまでの主力機に代わる新たな戦闘機の開発が、国内の各設計局に対し命ぜられた。以前より多くの戦闘機の開発に成功し「戦闘機の王様」と呼ばれていたポリカールポフ設計局に加え、ヤコヴレフ、ラーヴォチキン、ミグ、スホーイなど多くの設計局が新型戦闘機の設計に着手した。

1938年11月に第一線級戦闘機の開発を命ぜられたヤコヴレフ設計局では、設計局の頭文字をとったYa-26の開発名称のもと初の本格的戦闘機の開発に取り掛かった。それまでヤコヴレフ設計局ではAIRシリーズやそこから生まれたUT-1 (AIR-14) やUT-2などの軽量飛行機の開発に成功してきたが、かねてより戦闘機の開発に強い関心を持っていたアレクサーンドル・セルゲーエヴィチ・ヤーコヴレフ(Александр Сергеевич Яковлевアリクサーンドル・スィルギェーヴィチュ・アーカヴリェフ、1906年 ? 1989年)は、この千載一遇の機会にそれまでのものとは一線を画する新型戦闘機を生み出そうと努力した。設計された機体には、設計者同士の繋がりからクリーモフ設計局製のエンジンが搭載されることとなった。Ya-26には「26番目の戦闘機」を意味するI-26の正式名称が与えられ、開発が進行された。最初の計画では、1350馬力の中高度用液冷V型12気筒M-106エンジンを搭載して高度6000 mにおいて最高速度620 km/h、着陸速度120 km/h、航続距離600 km、飛行上限高度11?12 km、高度10000 mまでの到達時間9?11分、武装は12.7 mm機銃BSを1 門と高速射撃用の7.62 mm機銃ShKASを2 門となっていた。

I-26初号機であるI-26-Iの組み立ては1939年10月1日にモスクワの第115工場で開始された。一方、搭載が予定されていたM-106エンジンは最初のM-106-Iの組み立てが第26工場で行われ、発表によれば最初の試験が1940年2月に実施され、その後4月には二度目の試験が行われた。しかしながら、このエンジンは完成が間に合わなくなったため、I-26は急遽、同クラスだがやや旧型で出力が1050?1100馬力に落ちるM-105Pを搭載する仕様に変更されることとなった。一方これに伴い武装は強化され、VISh-61油圧プロペラハブ上に20 mm機関砲であるMP-20またはShVAKが搭載されることとなった。主翼下面と尾部の3ヶ所にある降着装置は、主輪の一部が露出する引き込み式とされ、その上げ下げには空気圧が使用された。また、ジュラルミン製分割式フラップもそれ同様空気圧によって作動するものとされた。空気抵抗を減ずるため、グリコールを使用するラジエーターと潤滑油冷却器は主翼後縁下面に取り付けられたダクト内にまとめて収められた。I-26-Iのキャブレター空気取り入れ口は、機首部分下面ではなく主翼付け根下面に取り付けられていた。

I-26-Iの組み立ては12月27日に完了し、モスクワの中央飛行場(Центральный аэродромツェントラーリヌィイ・アエラドローム)へ送られた。完成したI-26は、それまでのポリカールポフ風の幅の広い寸詰まりの小型の胴体をもったソ連戦闘機とは一線を画す、優秀な速度性能を想起させるスマートな外貌をもって登場した。そのため、工場員からは「クラサーヴェツ」(Красавецクラサーヴィツ)、つまり「美男子」と渾名された。

I-26-Iは、年の明けた1月5日より飛行試験に入り、1月13日には初めて完全な飛行を果たした。試験飛行における操縦は、試験工場の主任パイロットであるユリアーン・イヴァーノヴィチ・ピオントコーフスキイ (Юлиан Иванович Пионтковский) によって行われた。兵装や無線装置は搭載されずに行われた初飛行では、当時一般にまだ技術的に完成域に達していなかった引き込み式の降着装置も、雪氷の悪条件のなか順調に作動した。新型機の試験は緊張のなか続けられ、月内に10回の試験飛行が遂行された。だが、燃料系統が計画通りに働かないという事態が発生した。つまり、燃料系統のアルミニウム配管に疲労破壊が多発し、そのために飛行中に火災が度々発生した。また、空気圧系統も不調で、機銃射撃ができなくなったり、スライド式操縦席覆いが途中で引っ掛かって閉まらない、あるいは開かないということもしばしばあった。ピオントコーフスキイは、試作機体を守るために15回もの不時着陸を余儀なくされた。結局、再三に亙り燃料系統は作り直され、異なる潤滑油用ラジエーターが試された。ベアリングの過熱のためにエンジンは3度交換された。しかしながら、I-26-Iは成功しなかった。4月27日、I-26-Iはついに墜落し、ピオントコフスキイの生命とともに機体は失われた。

2号機であるI-26-IIは、I-26-Iの墜落以前の3月26日に飛行状態となった。一方、4月11日には二人目のテストパイロットセルゲーイ・アレクサーンドロヴィチ・コルズィーンシチコフ (Сергей Александрович Корзинщиков) が試験に迎えられた。工場試験で1機種に対し複数のテストパイロットをつけるのは、これが初めてのことであった。I-26-IIには、I-26-Iの試験で明らかになった欠陥を修正するための多くの改善点が盛り込まれていた。潤滑油冷却器は主翼付け根下面から機首の下へ移され、キャブレター空気取り入れ口を主翼付け根に分割、胴体幅はキャビンの後方で従来より拡大された。垂直尾翼の翼弦も広げられた。また、機体の軽量化と生産性と整備性の向上のための構造の簡略化として、降着装置のうち尾輪の引き込み装置を廃して固定式とした。

I-26-IIは、5月1日のメーデーで初飛行を行った。I-26-IIはコルズィーンシチコフの操縦により602 km/hの最高速度を記録したこともあったが、通常は590?595 km/hに留まった。試験はコルズィーンシチコフのほか何人かのテストパイロットによって行われた。その後、I-26-IIは、1940年6月にはI-180やI-28(Yak-5の試作名称)、I-200(MiG-1の試作名称)、I-301(LaGG-1の試作名称)と比較試験され、模擬戦において優れた成績を出した。

I-26-IIの試験は赤軍航空軍科学試験研究所 (NII VVS KA;Научно-испытательный институт (НИИ) ВВС КА) へ移され、6月10日より「ソ連英雄」ピョートル・ミハーイロヴィチ・ステファノーフスキイ (Петр Михайлович Стефановский) らによって厳しい国家試験が継続された。しかしながら、差し迫った戦局からその実戦配備が急がれ、機体は完成の域に達しないまま量産へと向かっていった。12月9日に試験されたI-26-IIIでは、M-105PエンジンとVISh-61プロペラが組み合わされた。この試験では基本的に好成績を収めたが、なお組み立てやシステムの不具合を指摘され、それらを解決した上でI-26はYak-1の正式名称のもと量産に移されることとなった。

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