2009年06月26日

公式発表による開戦理由

米英が主張した開戦事由は以下の通り。

イラクは大量破壊兵器の保有を過去公言し、かつ現在もその保有の可能性が世界の安保環境を脅かしている
独裁者サッダーム・フセインが国内でクルド人を弾圧するなど多くの圧政を行っている
度重なる国連査察の妨害により、大量破壊兵器の廃棄確認が困難である
度重なる査察妨害によって、湾岸戦争の停戦決議である国連安保理決議687が破られている
国連安保理決議1154で「この決議に対するいかなる侵害も、イラクにとって最も重大な結果をもたらすであろう」という、湾岸戦争停戦協定(上記687)破棄条件の決議、つまり最終警告がされていた。
決議1441では『最後の機会』が与えられたにもかかわらず、イラク側は査察に積極的な協力をしていない。
フセインとアルカーイダが協力関係にある可能性がある[16]
まとめると、イラク戦争(第二次湾岸戦争)は、国連安保理決議1154、1441に基づき、第一次湾岸戦争の停戦協定(安保理決議687)を破棄し、なおかつ米英の先制的自衛権の行使として(フライシャー報道官の言明)起こったものである。
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フランス、ドイツなどは開戦するなら決議1441以外に新たな安保理決議を付加すべきと主張したが、1441は無条件の査察を求めているのに対してイラク側が条件をつけてきたため、米英及び同盟国は開戦に踏み切った。また、フランスは議論の初期には主戦派で、地中海にいた原子力空母「シャルル・ド・ゴール」のペルシャ湾派遣準備を進めていることがTVニュースなどでも盛んに報じられていたが、後になって態度を翻した。

ブッシュ政権は、開戦の理由はイラクが無条件査察を認めないことであって、イラク国内に大量破壊兵器が存在するという理由ではないと主張しているが、開戦前にブッシュ大統領やチェイニー副大統領が「イラクは大量破壊兵器を保有している」とメディアを通して繰り返し広言していた[17]ため、開戦後に大量破壊兵器が発見されなかったことでこの戦争の『大義』が失われたという批判が巻き起こる結果となった。

2009年06月10日

海洋法に関する国際連合条約

海洋法に関する国際連合条約(かいようほうにかんするこくさいれんごうじょうやく, 英: United Nations Convention on the Law of the Sea)とは、海洋に関する従来の慣習法の法典化と最近の新事態に対応する新たな立法を内容とする、領海および接続水域・公海・漁業および公海の生物資源の保存・大陸棚に関する4つの条約のこと。国際連合海洋法条約(こくさいれんごうかいようほうじょうやく)などとも呼ばれる。全447条、本文320条と9議定書で構成される。海の憲法ともよばれる。略称はUNCLOS(アンクロース)。
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海洋を人類の共有財産とし、資源開発などの権利に加え、平和利用や環境保全など義務を規定。1967年の第二次国連海洋法会議でマルタ共和国の国連大使パルドー博士が提唱し、1982年のジャマイカのモンテゴ・ベイの第3次国際連合海洋法会議で作成され国連総会で採択された条約で、1994年に発効した。日本は1983年に署名し1996年に批准した(平成8年7月12日条約第6号)。

基本思想は「海は全人類のものであり国家は海洋に関して人類に対する義務を有する」というもので12海里の領海、国際海峡、200海里の排他的経済水域、その外側の公海を規定し大陸棚の限界、閉鎖海、深海底、海洋環境の保護、海洋の科学的調査、紛争の手続も含む包括的内容で世界の海の憲法と呼ばれている。日本でも発効に対応するため多数の関連立法、法律改正が行われた。

2009年06月06日

九州の役(きゅうしゅうのえき)は

九州の役(きゅうしゅうのえき)は、天正14年(1586年)7月から同15年(1587年)4月にかけて行われた、羽柴秀吉(1586年9月9日、豊臣賜姓)と島津氏との戦いの総称である。秀吉の九州攻め・九州平定・九州征伐などの名称で呼ばれることもある。

九州地方は当時、薩摩の島津氏が日向の伊東氏、肥後の相良氏、阿蘇氏、肥前の有馬氏、龍造寺氏などを下し、さらに大友氏の重鎮立花道雪の死により大友氏の支配が緩んだ筑後の諸国人衆も傘下に収め、九州統一を目前にしていた。豊後の大友宗麟は、島津氏の圧迫を回避するため、当時近畿、四国、中国を平定し天下統一の道を歩んでいた羽柴秀吉に助けを求める。

これを受け、関白となった秀吉は、1585年(天正13年)10月島津氏と大友氏に朝廷権威を以て停戦を命令(惣無事令)した。しかし島津氏はこれを黙殺して九州統一戦を進めたため、秀吉は九州攻めに踏み切った。

島津氏は九州統一の総仕上げとして、大友氏所領である豊前・豊後と筑前への侵攻を開始した。
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秀吉の到着前に九州統一を成し遂げたかった島津義弘は1586年(天正14年)6月筑前侵攻を開始、筑前の西半を制圧する。残るは高橋紹運の守る岩屋城、立花宗茂の守る立花城、高橋統増の守る宝満山城のみであった。7月、3万以上の大軍で岩屋城を攻めた島津軍だったが、高橋紹運の抵抗によって攻めあぐねた末、なんとか攻略する。島津方は上井覚兼が負傷、死者数千の損害を出す大誤算だった。直後に宝満山城も陥落させたが立花城は諦め包囲を解き、豊後侵攻へ方針を転換した。この際立花宗茂は撤退する島津軍を追い高鳥居城、岩屋城、宝満山城を奪還している。

2009年04月23日

ユーグ・カペー

ユーグ・カペー(Hugues Capet, 938年から940年頃 ? 996年10月24日)はカペー朝初代のフランス王。

9世紀以来北フランスに勢力を伸ばしたロベール家の出身。父はフランク公兼パリ伯ユーグ大公(Hugues le Grand)、母ザクセンのハートヴィヒ(ヘートヴィヒ)はドイツ王ハインリヒ1世の娘でオットー1世の妹。

956年、父の死に伴いフランク公兼パリ伯となる。987年カロリング朝のルイ5世の死とともに、聖俗諸侯により国王に推挙された。カロリング家との王位継承闘争に勝利し、生存中に子のロベールを王位継承者に選ばせ、事実上カペー家世襲の端を開いた。在位中はノルマンディー、ブルゴーニュ、アクイタニア、フランドルなどの封建諸侯に苦しめられた。

なお、カペーとは俗人修道院長が羽織った丈の短い外套(ケープ)のことで、元はユーグに付けられたあだ名であったが、後に家名となった。

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子孫
ユーグ・カペーはヨーロッパに数多くの子孫を残した。1848年までフランスを支配した、カペー朝、ヴァロワ朝、ブルボン朝、オルレアン朝の各王朝は皆彼の子孫である。他にも、1204年のコンスタンティノープル征服後に建国されたラテン帝国のクルトネー家、1910年まで続いたポルトガル王家、14世紀にナポリ王国・ハンガリー王国・ポーランド王国を支配したアンジュー家(アンジュー=シチリア家)もカペー家の系統に属す。また、現在スペイン・ルクセンブルクの各王室もユーグ・カペーの子孫である(厳密に言えば、カペー家の支流であるブルボン家出身)。

尚、ユーグ・カペーの末裔達は白百合を共通の紋章として用いている。

2009年04月22日

江戸幕府の明通商計画

琉球の衰退に対し、琉球を通じて明と貿易を望んだ薩摩国などを統治する島津氏は、豊臣秀吉による天下統一の頃から琉球王国への要求を強める様になった。秀吉も朝鮮出兵の際に、琉球へ兵糧米の供出を命じるなど、日本側の圧力は強まっていった。1603年に江戸幕府が開かれて日本が新時代に入ると、幕府は中国大陸の明と通航を考えるようになるが、対等な外交を認めない中華帝国である明との通航には、明へ服属しなければならず、これを避けるために琉球を介した間接貿易を画策した。1602年と1603年に相次いで琉球の辺民が漂着したため、彼等を届ける見返りとして間接貿易に応じるように琉球王府へ働きかけたが、承諾は日本への服属(日本による貿易操作)を意味することと王府は考え、幕府の申し出を拒否した。これを受け、幕府は武力で承諾させることを決断し、薩摩藩主島津忠恒に対して琉球への侵攻を許可した。

薩摩の侵攻
第二尚氏第7代尚寧の1609年3月4日、樺山久高ら島津軍3,000名余りを乗せた軍船100隻が薩摩の山川港を出帆した。3月8日に奄美大島へ上陸し、地元按司の反撃を受けたものの制圧、3月22日に徳之島、3月24日に沖永良部島を攻略し、3月26日には沖縄本島北部の運天港に上陸、今帰仁城を落として首里城へ迫った。琉球側は4,000名以上の兵を動員したが、日本国内の戦国時代を経験し強兵であった薩摩の本格的侵攻に対し、本土勢力との戦いは境界付近での小競合い程度で薩摩ほど経験を持っておらず、大貿易時代の終結で国力が低下していた琉球軍は抵抗及ばず首里城は陥落する。尚寧は和睦を申し入れ首里城から下城した。島津軍は4月5日に首里城を接収し、4月半ばには薩摩に帰った。

翌1610年、尚寧は首里城を離れて、薩摩藩主島津忠恒と共に江戸へ向かった。途上の駿府にて大御所徳川家康に、8月28日に江戸城にて将軍徳川秀忠に謁見した。忠恒は、家康から琉球の支配権を承認されたほか、奄美諸島(度々独立戦を起こし、琉球は持て余していた)を割譲させ直轄地とし、割譲後も表面上琉球領の体裁を採らせるため、王府の役人の派遣を続けさせた。

1611年、尚寧は琉球に戻され、三司官以下(鄭迥・謝名親方利山をのぞく)の重臣に、島津氏への忠誠を誓う起請文を提出させられ、国家の存続が認められた。また、琉球の貿易権管轄などを書いた「掟十五条」を認めさせられ、琉球の貿易は薩摩藩が監督することとなった。こうして薩摩藩は第二尚氏を存続させながら、琉球を間接支配するようになる。

以後、尚氏代々の王は江戸幕府の将軍に、使節(琉球国王の代替り毎に謝恩使・将軍の代替り毎に慶賀使)を江戸上りで派遣する義務を負い、また琉球と清との朝貢貿易の実権を薩摩藩が握るようになった。すなわち、薩摩藩の密貿易である。薩摩藩の服属国となって通商と技術の伝播を義務付けられたが、清にも朝貢を続け、薩摩藩は琉球が清との交易で得た利益で潤った。薩摩藩は、江戸へも琉球の使節を連れたが、その際の服装は、琉球に清使節が来た際に用いる中国風のものを着させ、異国ということを意図的に強調させた。これは、幕藩体制下の日本において、異国である琉球をともなっている、薩摩藩の権威と地位を向上させるという狙いがあり、幕府にとっても中国の中華思想に基づく朝貢貿易と同じ性格の関係を琉球と持つことにより、中国と対等であるという意識を持てると言う利点もあった。

王国の再建(羽地朝秀・蔡温らの改革)
島津侵攻から約50年後の1665年、羽地按司朝秀が摂政に就任し、疲弊した琉球を立て直すために一連の改革に乗り出した。『羽地仕置』(1673年)を制定して、人心の立て直しを図る一方、系図座を新たに設けるなど、王府機構の改革を行った。また、琉球初の正史『中山世鑑』を編纂した。他にも新たに行政区として間切を新設し、各間切には間切番所を設置するなどして地方改革も実施した。

羽地朝秀の改革は蔡温へと受け継がれる。蔡温は、農作業の手引き書『農務帳』1734年を発布して農業生産の向上を目指し、治水・灌漑事業を実施して、全国の河川改修を行った。改修された河川は数十にも上った。蔡温は自ら現地へ赴き、改修事業を指揮するなど、多大な情熱を注いで農業改革を実施した。また、「元文検地」を実施して全国の耕地の測量調査を行った。他に、山林改革、王府財政の建て直しなども実施した。

この頃、甘蔗(サトウキビ)から黒糖を作る技術が麻平衡・儀間親方真常によって確立され、黒糖は貿易のための商品作物となった。また、琉球独自の格闘技・唐手(後の空手)やヌンチャクも生まれ、琉球唐手からはトンファーも生まれた。

羽地朝秀、蔡温、儀間真常は琉球の五偉人に含まれ、今日でもその業績は高く評価されている。

中継貿易の衰退
幕末の頃から、琉球王国には欧米各国の船が来港して、航海の中継点として利用する為、開国の要求を行うようになった。

1844年にイギリスとフランスが通商を求めて琉球を訪れた。薩摩藩は幕府に対応を求めたが、阿片戦争(1840年)の情報を受けていた幕府は、琉球に限って薩摩の対英仏通商を許可する。

1847年、薩摩が琉球を英仏に開港した。

1853年には米国のマシュー・ペリー提督が日本来航の前に琉球を訪れ、強制上陸して首里城入場を果たし、国王に米大統領からの親書を渡すことに成功した。続いてペリーは江戸幕府との交渉を行った。

1854年3月31日(嘉永7年3月3日)に日米和親条約を結び、日本は開国した(黒船来航)。その帰路に再び首里城を訪れたペリーは、同1854年7月11日(咸豊4年6月17日)に琉米修好条約を結んだ。

清が海禁政策を緩和し、日本も開国したことで、江戸時代の鎖国下での4つの貿易ルート(松前藩?沿海州、対馬藩?李氏朝鮮、長崎?清・オランダ、薩摩藩?琉球?清)から、開港5港に貿易ルートの中心が移った。そのため、琉球を介した中継貿易は急速に衰え、また、中継貿易を支えた日清両属という琉球王国の体制も意義を失った。

なお、最初の来航の際に、ペリーは大統領から、通商の為に日本・琉球を武力征服することもやむなしと告げられており、親書を受け取らなかった場合は占領されたことも考えられる。米国は太平洋に拠点を確保できたことで、アジアへの影響力拡大を狙ったが、後に自国で南北戦争となり、琉球や日本に対する圧力が弱まった。

明治以降

おっくうこ リモデル ユズ ミドル マナ マスク スギラ フラフー フライング バスター コブラ フランジ モンキ 水平線 ジンジャー テーゼ なんぶ セリンリン アランス トブツ マイスタ オレゴンオイ ビヌーボー シルバ トレサパ プロセニ フィンエァ デフォルト ブギウギ ソマリア かぶき バイタル ガーネット ミラーボ ケンタウ バラライカ セクサ マダガス バチスト サポナリア ハンドル ストック スファレ イ長調 ミナレ ならく たびだち イージス スリリース ピクルス

琉球処分
1871年に全国で廃藩置県を実施(このとき琉球国を国家としてではなく令制国として扱い、鹿児島県に編入している)した日本の明治政府は、1872年(明治5)、琉球王国を強制廃止して琉球藩を設置した。しかし清はこの日本の政策に反発、琉球は古来中華帝国に服属していたものとして、琉球の領有権を主張した。当時の東アジアの秩序は、中国・清王朝を中心とした、朝貢を基本とする華夷秩序によって形成されており、琉球も例外ではなかった。しかし、日本は「万国公法」の、近代的な「国民国家」の理論を適用し、日清重属であった琉球を取り込もうとした。日本は琉球領有の正当化のため、台湾原住民による琉球人殺害の報復として1874年(明治7)に台湾出兵を行なった。1879年(明治12)、明治政府は軍隊と警官を派遣して琉球藩の廃止を宣言し、鹿児島県に編入した。同年中に沖縄県を設置し、薩摩以前の宗主国である清国との関係を重視する王族士族の抵抗(サンシー事件など)を退けた。一部の抵抗者は清に亡命し、琉球回復の政治活動を行い、彼らは脱清人といわれた。しかし日本政府が最も危惧した清国の武力介入は結局行われず、琉球王国は中央集権的近代日本国家に組み入れられて消滅した。国王(正しくは藩王)であった尚泰は侯爵に叙せられ、東京への定住を命ぜられた。第二尚氏家系は現在も続いている。

以上の、琉球藩設置から廃藩置県までの一連の流れを琉球処分と呼び、琉球藩設置を第一次琉球処分、廃藩置県を第二次琉球処分ということもある。

清は、この動きに反発し、両国関係が緊張した。翌1880年(明治13)、アメリカ前大統領グラントが仲裁に入り、沖縄県から先島諸島を分割し、清へ割譲する案がまとまった。しかし、清は態度を変えて条約に調印せず、結局、領有権問題の解決は1894年(明治27)の日清戦争後まで持ち込まれた。戦争に敗れた清は台湾を割譲、同時に琉球に対する日本の主権を認めざるを得なくなった。

琉球処分以降の中華民国の尖閣諸島を含む沖縄諸島の認識は日本領として正式に承認し両国間では一応の決着がついていたことが判明している。その証拠として1920年に中華民国から日本の石垣村に送られた感謝状には『日本帝国沖縄県八重山郡尖閣諸島』という記載がある[2]。また70年代頃まで中華民国で使われていた教科書や台湾の国防研究所と地学研究所が作成した地図でも尖閣諸島を日本領として明確に記載していた[3]。

第二次世界大戦後、台湾に渡った中華民国政府(国民政府)は沖縄返還協定が結ばれた際にプロセスに参加できなかったことを不服として琉球の本土復帰を承認しておらず、また日中国交正常化に伴って日本と断交したため、正式には日本の琉球領有権を認めていない状態にある。現在でも政府文書などで時折日本と琉球が別の色で表示されている事などがある。中華人民共和国は日中共同声明で日中両国の主権及び領土保全の相互尊重を声明しており、在野の学者が沖縄の領有を主張することはあるが、中国政府は公式には、日本の沖縄に対しての領有権を否定する発言を行ったことはない。

近代化政策
正式に日本の領土とされた沖縄県であるが、実情は世界に比べて法整備が遅れ、琉球時代旧来の体制が引き継がれることとなった。先島諸島の人頭税廃止を求める住民が宮古島で運動を起こしたことをきっかけに、沖縄県各地で旧制度廃止・改善をめぐる運動が起こった。運動は1890年代に県庁農業技師の謝花昇を中心に高揚し、県政の改善や参政権を要求した。この運動の成果かはわからないが、徴兵制、地租改正、市町村制、府県制、衆議院議員選挙法などが、概ね本土から10?25年遅れて施行した。

1920年(大正9)に、南洋諸島が日本の委任統治になると、新天地を求めた住民が環境の似たこの地へこぞって移住した。また同時期に、ハワイやブラジルなどの中南米諸国へも多数が移民した。第一次世界大戦による戦争バブルが崩壊し、1930年代に世界恐慌による大不況と、全国規模の農産物の不作が発生すると一時的に飢饉となり、貧家ではソテツの実を毒抜きして食べたりもしたが、毒抜きが不十分で死んでしまうこともあり、「ソテツ地獄」と呼ばれる状況となった。この貧窮は、さらに出稼ぎを目的とした本土(大阪など)や南洋諸島、中南米への移民を促進することとなった
太平洋戦争では、1944年(昭和19)10月10日に本土空襲に先駆けた激しい空襲によって那覇市の90%が壊滅し(十・十空襲)、上陸戦開始まえに知事の努力で行なわれた本土疎開でも、学童疎開の対馬丸の被雷喪失など、被害が発生していた。

1945年(昭和20)3月26日、慶良間諸島にアメリカ海軍艦隊が集結し、3月29日にこれを占領した。4月1日に米軍は55万人の兵力で沖縄本島の読谷村(沖縄本島中部)から上陸し、すさまじい砲撃と空襲を加え進攻してきた。圧倒的なアメリカ軍の火力の前に、首里城地下を本部にした日本軍との間で壮絶な地上戦が行われ、沖縄県民も沖縄防衛隊を配置、多くの一般人も戦闘に参加し、日本軍と共に亡くなった。第32軍司令官牛島満が自殺した6月23日に組織的戦闘は終結、実質的な戦闘は7月4日に終了し、9月7日に降伏文書が取り交わされた。

また、戦争に伴って行われたマラリア発生地域への住民の強制疎開や、物資の移動、栄養状態の悪化、マラリアの集団罹患が発生した(戦争マラリア)。

2009年04月05日

世界各国のモノポリー

基本的に、販売される地域により、ボードに書かれている不動産物件の名前も変えられている。例えば、香港版にはビクトリア・ピークなどがある。2005年にはセガからメダルゲーム版「モノポリー・ザ・メダル」も誕生した。一部地域ではモノポリーとゲームの趣旨が違うが、カードゲームモノポリーも販売されている。

日本
日本では、かつてエポック社から発売されていたが、現在はタカラトミーから発売されている。地名が「銀座」など日本のものである『モノポリー・ジャパン』もあるが、通常の日本語版モノポリーはオリジナルであるアトランティックシティ版の地名をそのまま和訳したものである。ポケットモンスター版、ピクサー版のように、完全日本語化されたものも発売されている。スターウォーズ版は英語版に日本語訳の説明書が付属している。ウルトラマン版や六本木ヒルズ版、東京(お台場)版、秋田県版もある。基本的には『モノポリー・ジャパン』などのように、それぞれのリリースされる国や地方の地名が地所になるのが普通である(他国語版の記事を参照)。それ以外にも、別バージョンや取引するものが地所に限らない傍流もあり、アラスカエディションなどの地方版、地所のカードやマスがNHLやNFL、NASCARなどのチーム名となっているスポーツリーグ版、ポケットモンスターやディズニーなどの版権ものなどが多数リリースされている。近年では、新千年紀を記念したミレニアムエディション、地所の代わりに Yahoo、Sun Microsystems などのIT関連企業が配された dotcom エディションなどが話題を呼んだ。ミレニアム版は通貨の単位が一桁高く、プレイヤーのコマが、液晶テレビや携帯電話、ローラーブレードなど、現代風にアレンジされている。さらに、お札をなくした「キャッシュカードエディション」が登場した。スターウォーズ版やピクサー版はプレイヤーのコマが金属製のピューターで作られている。 秋田版では通貨の単位がジェンコであり、宿がかまくらと秋田杉で作られており凝ったディティールになっている。さらにモノポリー大阪版もある。

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2009年03月21日

廃止直前の運行概況

2005年3月1日のダイヤ改正に伴い、使用車両等が変更された。また、東京駅 - 門司駅間は「はやぶさ」と併結運転となっていた。

なお、列車番号は1・2と運転線区等で変更がない。下り=1列車(いわゆる1レ)、上り=2列車(2レ)となる。

停車駅
●:停車。
↓・↑:通過(矢印方向に運行)。
(運):運転停車。
( ):臨時停車。
下りの下松駅→大分駅間では、乗車券と立席特急券でB寝台に乗車することが可能である。表では、■の地色部分で表記されている。
熊本車両センターに所属する14系客車が使用された。
運用的には「スハネフ14(15)形-オロネ15形3000番台-オハネ15形2000番台-オハネ15形-オハネ15形-スハネフ14(15)形」1編成を上り「はやぶさ」→下り「富士」→上り「富士」→下り「はやぶさ」とする運用を組み合わせる形で使用されていた。
「富士」「はやぶさ」に使用されている14系の製造時の形式は、14系14形が5両(スハネフ14形0番台)、14系15形が9両(スハネフ15形、オハネ15形0番台)、24系24形が1両(オハネフ24形を改造したスハネフ14 101)、24系25形が16両(オロネ15形3000番台、オハネ15形2000番台、オハネ15形1100番台)と20系を除く旧国鉄が設計・製造した寝台特急用客車の全形式にわたっていた。
このため、趣味的に見ると、銀帯の車両が多数派となっているが、もともと白帯であるスハネフ14形に加え、更新改造時にステンレスによる銀帯を白帯塗装に変更した15形車両も存在するため、帯の色が統一された編成となることはほとんどなかった。運行廃止直前の時点では、スハネフ14形、スハネフ15形の一部、オハネ15形1100番台が白帯、スハネフ15形の一部、オハネ15形0番台、オハネ15形2000番台、オロネ15形3000番台が銀帯となっていた。
トウワ マリンシャ パスネ マイル 琴の波 日本検索 ジュピター ライム ティーカ トラック パワステ カラー ミューズ レイオフ テレホ レイヤ チャイナ ダリー バッケン セル ハイスク チャリス おおみ ウバイド ドレープ ぎおんうお かぼちゃ レコアダー フィール もちは チキン ブーバル つれあい マスカレ りざや ルマガ 伊予緋 すぺあみ スケルト 十二単 ストライプ ヒラタケ 仮面 エゴイス ゼノタイ クロスセル ドアマン パンダ アケミス サラサ

「はやぶさ」・「富士」に使用中の14系客車

牽引機関車 [編集]
なお、運転士は各旅客会社が自社区間を担当。

2009年03月06日

アングロサクソン系のアメリカ人で王党派の女性

イギリス王室に対する政治的忠誠心の危機は、植民地アメリカの女性の社会構造を崩壊させた。男性が国王に対する連帯を表明しようとしていまいと、階級、家庭、友情の絆が解かれ、以前の結びつきから女性を孤立化させた。女性の夫に対する忠誠心はかっては私的なことであったが、イギリスに対する忠誠を表明した夫に対する場合は特に政治的な行動に変わった。これら王党派の女性達は独立戦争の間大変な逆境に直面した。女性達は夫が反逆者という理由で自警団や暴徒によって有罪とされ犠牲にされた。富裕な王党派の妻は特に、反逆者と考えられる男の財産を没収したい革命政府の格好のターゲットになった。自分自身の財産を持っている女性の場合は、没収行動が通常は持参金の部分を除外していたので、愛国者の圧力にも耐えられた。しかし社会的な立場がどうあれ、王党派の女性は政治的少数派の一部であり、それゆえに近所や友人の支援も無くなっていった。

多くの王党派女性達は敵の中で生活するよりもその社会を離れる道を選んだ。一人の女性が突然立ち退くとしても、この選択は家財一切を持たずに出て行くことを意味した。王党派の多くはカナダに移動した。そこでは沢山の王党派の仲間がいた。古参兵、家族、寡婦、子供達がノバスコシアに殺到した。王党派の中には土地の愛国者政府に安全な通行を願い出て、家財を持ってイギリスの領土に移動する者もいた。このような場合でも愛国者の役人は女性が持って行くものを制限し、移動のために支払う費用を請求した。最悪の事態では、12歳を超える息子の場合に愛国者軍隊への従軍を求められ残して行くしかなかった。

王党派の女性にとって抵抗が別の選択肢となった。1779年、3人の女性、マーガレット・イングリス、スザンナ・ロビンソン、メアリー・モリスはオールバニ市長の子供の誘拐計画を立てた。新しい政府に対する忠誠を誓うことを拒否するように友人を唆す者もいた。イギリス王を積極的に支持する女性達の多くは王党派軍隊を支援するために従軍し、あるいはイギリス軍のために情報を集めた。夫を逮捕から免れるように隠す女性がいたし、重要な書類や金を当局に取られないよう隠す女性もいた。これらの行動は女性達の政治的活動で自主性に関する問題を投げかけた。つまりその行動は妻としての忠誠なのか、あるいは政治的に独立した選択なのかということであった。

役人は反逆罪を定義する規則に使う言葉を変えることにより、王党派女性の自発的行動の可能性を徐々に認めていった。初めに使われていた言葉は「男」であったが、「人」に置き換えられ、「彼」は「彼または彼女」に置き換えられた。1779年のマサチューセッツの反逆罪に関する規則では、反逆者の資産没収をうたっていたが、伝統的な定義に従って、その妻の私有財産権は保護されていた。不在の男に関する規則は罰則が厳しくなり、女性が夫の資産の中で自分の財産権の保護を求めるならば、自分自身で政治的関与をしなければならないとした。これらの規則では、女性が夫に従って逃げ出す場合には、その財産も没収の対象とするとしていた。この留まる妻と立ち去る妻との間の識別で、マサチューセッツの規則は家族の分割と妻の独立した政治的決断を促した。戦争が終わって逃亡王党派の寡婦が自身の財産権を主張したので、結婚した女性が何に対して忠実であるかという問題が生じた。

先住民の女性、愛国者および王党派
アメリカ州の先住民族にとって、独立戦争は愛国主義でも独立でもなかった。七年戦争の結果として多くの土地がフランスからイギリスに渡ったが、西部辺境の土地は実際には先住民族のものであった。北アメリカの「開拓されていない」部分の「所有権」は、闘争によって決着がつけられる感があった。イギリスの西方に対する利権はヨーロッパでは認められていたものの、先住民は蚕食する開拓者やイギリス軍の大部隊の存在に直面することになった。アメリカ独立戦争が近くなると、イギリスの戦略は海岸に近いニューヨークやボストンを支配することになったので、兵士達の多くがそこに移動し、西部辺境は白人の開拓者と先住民との絶え間ない紛争が急増していった。これに加えて1763年までに飢饉や伝染病が先住民社会に広く広がる問題となった。

アメリカ先住民の多くは、ヨーロッパの紛争に巻き込まれても何の得にもならないので中立を望んでいたが、実際にはどちらかの側に付くことを強制された。独立戦争中、愛国者民兵によって先住民の集落が襲われることがあったが、特定の種族がどちらの側に付いているかなどにはお構いなしのこともあった。白人にとって先住民はすべて同じように見えた。先住民の大多数がイギリス側についた。先住民にとって愛国者側が勝てばそれは西方への進出を意味し、彼らの土地を蚕食されることを意味した。一方そこには住んでいないイギリスであればよりましと考えていた。
フラッド キャロ メッカ 輝きの季節 テアーゼ 上位シーン 枕千鳥 フェラテ マドラス ロマン カーボン ランク ソーホー タンプ パーティー タック ルトップ ハバナ スプレッ エンド オキサ スフマート らくだいろ ブタン カゲル キタス スタジャン ランチ シーネ ネッキ アビリテ オルガス ばなな みなせ クローバー キジムシ ガマ対策 モンテ ローコード コック ツァボラ メーター ごぼう ピギー ランナー エルシー こもづの チャド かてい ブルジュド

先住民の女性にとって戦争の最も基本的な影響は、家、家庭、農耕生活の破壊であった。一般に先住民の女性は農耕に対する責任があり、戦争による収穫物や家産の破壊は特に大きな打撃であった。女性達は同族の繋がりを保ち裁定する者であり、家庭内の領域では大きな支配力があった。戦時には白人の開拓者やヨーローッパの交易業者と先住民との交易も難しくなった。とりわけ異なる種族間の交易は打撃であった。女性達はその社会での交易者でもあったので生活を維持して行く上での困難さが増していった。

白人との接触は、戦争に絡む変化とアメリカの戦後政策の結果として伝統的な家庭内領域にあった女性の地位を変化させたと主張する歴史家もいる。独立戦争の後の指導要綱は先住民の「文明化」であり、ほとんどすべての先住民社会が女性による農耕を行っていたという事実にも拘わらず、狩猟社会から農耕社会への転換が主唱された。しかし、アメリカ合衆国の政策立案者は女性が主な農耕従事者であるならば、先住民社会において農耕が主要部分とはなっていないと信じていた。アメリカ合衆国政府は先住民の女性達に紡績や機織りを行わせ、男達に農耕を行わせるよう奨励した。性の役割を変えることは先住民の文化に悪影響を与える大きな社会問題となった。

2009年02月14日

姉、ちゃんとしようよっ!

柊空也 (ひいらぎ くうや) 声:小池竹蔵(※ドラマCD・OVA1巻)→木島宇太(OVA2巻〜)
主人公。5月5日生まれ(海より生まれた時間が遅い)。柊翔の養子。顔立ちが良く柊姉妹に甘やかされ育つ。その後10年間犬神家に預けられていた。鎌倉に帰ってきてからは巴と一緒に家事をこなしたりしている。かなりのスケベ。たまに幼児退行する。初体験の相手は帆波。沖縄時代には与那嶺京(よなみね みやこ)という彼女がいた。空也が小さい頃から要芽が好きで、京が要芽に似ていたからという理由で付き合っていたが、「やはり要芽とは違う」というかなりわがままな理由で別れた。自分の部屋の掛け軸や自分専用のエプロンには「空矢」と表記されている。2では、「空谷」と表示されている。これは瀬芦里が他の姉たちみんなの弟「空也」ではなく、自分だけの弟「クーヤ」になってほしいという願いからわざと誤字したもの。瀬芦里からの愛称は「クーヤ」。
本作のシナリオを担当したタカヒロが立ち上げたブランドであるみなとそふとのオフィシャルホームページの日記で君が主で執事が俺での久遠寺夢に手紙を送りつけて登場した事がある(丸に身体を付けただけのかなり適当な姿ではあるが)。
オーチャド ライカ フリー カクタス とかく の波 くつわむし ウォーム 聖護院かぶ デッドラ ジッダ プチ フェイク カプジ ビドム ニウム ぽぽー タンメン チエンマ かなぎ オファー アパシー スコープ ネバー ウーマンレディー イースター トーキー シュリ なっぷる 愛燦燦 マース マズルカ オシレ ラミンゴ バンス チーズバ スナイ サラセニ グリーン 夜長鳥 アバウト プレース バイアス デカダンス フラクタル シーケ イヌビユ パートナ 新秋柿 ノッキング

柊雛乃 (ひいらぎ ひなの) "姉さん" 声:木葉楓
柊家の長女。3月3日生まれ。子供のような外見だが柊姉妹のまとめ役で、やんちゃな妹弟たちを寛容に見守る「みんなのお姉さん」。幼い頃に病気を患い寝たきりの生活が続いたが、長く苦しい闘病生活を経て完治。また、闘病中に何度も生死の境をさまよったことにより、この世ならぬ存在―霊や妖怪、魑魅魍魎の類―との意思疎通が可能。その経験と能力を活かし、「鎮魂の舞姫」として除霊の仕事もしており、地元住民からは「雛様」と呼ばれ、特に御歳を召した方々の崇拝の対象となっている。2では近所の神社で巫女のバイトもしている。マルを拾ったのも彼女である。身長や外見がコンプレックスで、子ども扱いされると独裁者のような言葉を呟きながらいじけてしまうのが玉に瑕。古風かつ尊大なその口調は、好きな時代劇の影響による。気分次第で文字が変わる扇子を持つ。また、「ムード」を「むーど」のようにカタカナで表示されるものをひらがなで表示される。また、誰かの名前を呼ぶときも「要芽」は「かなめ」のようにひらがなで表示される。妹弟が良いことをすると褒美として飴をあげる。味は、ミント味など様々なバリエーションが存在する。口癖は「で、あるな」「飴をやろう!」。瀬芦里からの愛称は「ひなのん」。
柊要芽 (ひいらぎ かなめ) "お姉様" 声:北都南
柊家の次女にして空也の初恋の相手。12月24日生まれ。「柊法律事務所」所長。空也が幼い頃には優しく接していたが、空也が沖縄を離れた辺りから態度が一変。今では「氷の弁護士」という異名を全世界に轟かせ、性格も氷のように冷たくなった。レイプを好み、1作目では空也に自分の事を「お姉様」と呼ばせる程に痛めつけた。しかし、意外と自爆を見せることも多く、あまり憎めない存在でもある。2では隣に犬神姉妹が引っ越してきたことにより、姉の帆波と反発しすぐけんかしてしまう。普段はあまり作らないが実は料理が得意。ペンギンが大好きである。また、好物はミントアイス。虫が苦手。寝つきがよい反面、寝起きがもの凄く悪い。コーヒーを事務所ではよく飲んでいる。しかし、本人は味を理解してるつもりだがあまり味の違いなどが分かっていない。瀬芦里とは普段2人でお酒を飲みながらお互いの話をしているらしい。1では、隠しヒロインのような存在で、最初に要芽以外の姉妹を攻略しないと、要芽ルートは出来なかった。そのせいか、1では要芽の出番はやや少なかった。しかし2では他のヒロインと同じ立場で攻略できるようになり、出番も1に比べて多くなっていて、Hシーンも柊全姉妹+帆波とのカップリングが存在している。また、2では、空也に対して積極的に自分からアプローチしている姿を見ることができ、帆波とも空也のことで喧嘩してしまうというシーンもある。『つよきす』にもゲスト出演し、ヒロインの1人霧夜エリカの専属弁護士となった(ちなみにゲーム版のエリカの声も北都南)。口癖は「黙れよ」。瀬芦里からの愛称は「要芽姉」。
柊瀬芦里 (ひいらぎ せろり) "ねぇねぇ" 声:AYA
柊家の三女。1月1日生まれ。天真爛漫で自由奔放な柊家一のトラブルメーカー。しかし、他の姉妹とは母親が違う腹違いの姉妹であるということがコンプレックスになっており、奔放な性格の底に癒されない影を抱えている。そのため父親「翔」とはあまり仲がよくない。母親については自分を捨てたと思いあまり逢いたくはないようだが、心のどこかでは一度話をしたいようである。雛乃を「ひなのん」、巴を「もえ」など、柊の姉妹達を親しい友達のような独特の愛称で呼ぶ。本当の母親は北欧女性で、瀬芦里は幼い時分に荷物一つで父親のいる柊家に送りつけられてきた。本当の名前はセロリーヌ・アンフェルトだが、日本に住むにあたり、柊瀬芦里という名前にした。北欧ハーフのため、姉妹の中で唯一の金髪。抜群のプロポーションを誇り、かつては雑誌のモデルをしていたこともある。家々の上を屋根伝いに駆けて長距離を移動するなど、人間離れした動きをする並外れた運動能力の持ち主。また、お金儲けの話を聞いてきては皆を巻き込む。猫と意思疎通ができ、立ち絵もネコ耳になるときがある。幼い頃のある出来事をきっかけに空也のことが大好きになり、本人いわく「likeではなくlove」らしい。ただ、その割に空也の事をこき使ったり、空也の部屋を占領して住み着いたりと、恋愛の仕方についてもかなり自由奔放。普段家にいるときは、暑いときなどすぐに服を脱いで全裸になってしまうことが多い。空也曰く、笑顔が一番似合う人物。口癖は「にゃっ!」など。
柊巴 (ひいらぎ ともえ) "ともねえ" 声:マルコ
柊家の四女。6月6日生まれ。大学生・考古学専攻。見た目はヤンキーのように見えるが、純粋で心の優しい人物である。趣味はガーデニングで、柊家の家事全般を担当している。ケンカや争い事を好まず「みんな仲良く」が彼女の理想。しかし、父親の翔に「柊姉妹はまだ彼氏がいない」と発言した際、他の姉妹といっしょに翔をボコボコにするなど、やはりそこは柊の姉妹。ぬいぐるみが大好きで、UFOキャッチャーの腕はかなりのもの。その結果、自分の部屋には数え切れないほどの人形が置いてある(名前付き)。絵も漫画家レベルに上手く、スケッチブックには魔法少女になった時の巴とやけに凛々しくなったマルが描かれていた。顔、スタイル共に良いいが本人は「そんなことはない」と否定している。身長が高いことと、胸が大きいことにコンプレックスを感じている。が、空也はそれらを含め巴の事をきれいだと思っている。また、胸が大きいことについてよく高嶺や雛乃に突っかかれる。実は家の倉庫から見つけた指輪の力によりジガというものに纏身(てんしん)できて、クロウ(黒羽?)という怪物と戦っている。本人は「魔法少女みたいなものがよかった」らしく2ではその願いがかなう。ちなみに1では「巴姉」、2では「ともねえ」と表示される。2では歩笑と仲良しになるがあまりの仲良しぶりに恋人同士になっているのではないかという疑惑も出るほど。買出しなどで商店街によく出かけるために商店街の人たちからは人気者になっている。口癖は「あぅ…」。瀬芦里からの愛称は「モエ」。
大型自動二輪の免許を取得しておりバイクを所有、「ラスカル」と名前をつけている。尚、ジガに纏身した状態で搭乗すると「ラスカライザー」へと進化し、時速600kmまで加速する事ができる。
公式ページの人気投票で3連続1位を果たした最も人気のあるキャラである。ただし、きゃんでぃそふと全ヒロイン人気投票では『つよきす』のヒロインに引き離され、4位という結果になった(それでも本作のヒロインの中では一番順位が上であるが)。
柊高嶺 (ひいらぎ たかね) "姉貴" 声:芹園みや
柊家の五女。2月14日生まれ。ツインテールが特徴的で、海にいつもツインテールのことをバカにされている。身分は大学生で心理学専攻。空也へのいじめが大好きで、幼い頃から日常茶飯事的に行っており、空也の子供心にしっかりとトラウマを残している。体力面で立場が逆転した現在でも、彼女に攻撃されると空也が反射的にヘタれてしまうのはそのためである。現在でも空也の事を「イカ」と呼び、巴のこともこき使っているように見えるが、実はそれらは愛情の裏返しで、本当は空也のことも巴のことも大好き。いわゆる一つのツンデレ。空也が悩んでいるときなどは、ぎこちないながらも彼女なりの表現でそれなりに励ましてくれる。人前に立つと「外交モード」になり、礼儀正しくおとなしい性格に変わる。その豹変ぶりは雛乃にして「完璧な化けの皮」と言わしめるほど徹底している。要芽に憧れており、大人の女を目指している。ヤキソバが大好きで、パソコンに自分のヤキソバのサイトを出すほど。彼女の髪を結んでいるリボンは母親の形見で、今では高嶺の宝物。口ぐせは「この、イカ!」「ぬぅぅぅ」など。瀬芦里からの愛称は「タカ」。
柊家の中では最も頭が良く、潜在的なポテンシャルでは要芽さえも凌駕すると言われているが、柔軟な思考ができないため能力を発揮しきれていない。そのため「頭はいいのだけれど、バカなのが欠点」と評される。それのせいもあってか、海や瀬芦里にちょこちょこからかわれたりしている。また、運動神経が極端に悪く、水泳をはじめ運動全般が苦手だが、並外れて根性があるため、気合を入れると何とかこなせる。得意なピアノは、大切な人の為にしか弾かない。
本作のシナリオを担当したタカヒロが立ち上げたブランドであるみなとそふとのオフィシャルホームページの日記に登場した事がある(後姿だけだが)。
柊海 (ひいらぎ うみ) "お姉ちゃん" 声:内村みるく(ゲーム、ドラマCD、OVA1、2巻)・みる(OVA3巻〜)
柊家の末娘。空也と同じ日(5月5日)に生まれたが、自分の方が数時間早く生まれたという理由で空也を弟扱いしている。いわゆるダダ甘お姉ちゃんで、柊家の中で最も空也を溺愛しており、三度の飯より空也という感じである。空也に自分の名前を呼ばれるとすぐに空也の元へ駆けつけることが出来る。また、駆けつけた後も的確な処置を行い空也の事を助けてくれる。なお、空也を溺愛している理由はもちろん生まれた時から弟としての空也を好きという理由もあるが、母親である凛に空也の世話をお願いされたという理由もある(ただし、理由のほとんどは前者で、後者は前者を無制限に肯定する大義名分となっている感がある)。空也の事をいじめる高嶺に対しからかったりいじめたりしている。ただし決して嫌いというわけではない。また、いやらしい気分になってきたことを「盛り上がってきちゃった」という。自分で作詞した意味不明ソングをよく歌っていることがある。パソコンや機械関係に詳しく、自分のホームページを持ったり、自分でメカを作ったりしている(代表作:メカ高嶺)反面、不器用であり家事などはまったくできない。特に料理の腕前はひどいものらしく、柊家で海の作ったものを食べることは死を意味する。ちなみに高嶺の判別基準はツインテールであり、高嶺にそれ以上の存在意義を認識していない。普段は三つ編みだが、2ではほどいたバージョンもある。その髪を解いた姿は普段とは全くの別人のように見える。カイというハンドルネームでインターネットを使いこなしているらしい。口ぐせは「しぼむ〜〜〜」。瀬芦里からの愛称は「うみゃ」。
部屋も姉妹中一番個性的な部屋で、パソコンが数台に世界規模の証券取引用の大型ディスプレイをはじめ、工事現場用のポールや、視力検査用のポスター、鹿の壁掛けまで支離滅裂にある。
株にも詳しく、貯蓄が既に億単位まできているらしい。

2から登場するメインキャラ
犬神帆波 (いぬがみ ほなみ) "ねぇや" 声:長崎みなみ(ゲーム)/一色ヒカル(ドラマCD)
犬神家の長女にして空也の初めての相手。女優を目指しているが、本人はこれといった努力はしていない。女優のときの芸名は「犬上保奈美」。声帯模写や変装の技術は神に等しいレベルである。基本的に努力をすることを嫌い、部屋の片付けさえもできない。そのため、部屋がゴミ屋敷状態になっていて、そのたびに歩笑に片付けてもらっている。この性格の原因はどうやら過去に何か出来事があったらしい。オンラインゲームが好き。お小遣いも遊びに使ってしまう為、あまりお金を持ってない。出会ったときから要芽と口論になり、それ以来、何かにつけて討論になる(ただし、帆波本人は仲良くしたいとも思っているが要芽が嫌がっている)。これまでに数多くの男から告白をされたが、空也以外受け付けないため秒殺で断ってきた。体重のことについて指摘されると今までの態度を一変し、暴力的になる。さびしくなると「みー、みー」と鳴き、かまってほしいということを主張する。誕生日のプレゼントなどは、高級な洋服やかばんよりも、笑い袋など変なもののほうがいいらしい。口癖は「チャオ」。
犬神歩笑 (いぬがみ ぽえむ) "ねーたん" 声:海原エレナ
犬神家の次女。ゴスロリ衣装を身に着けている。基本は無口で必要最低限のこと以外はあまりしゃべらない。恋愛小説家として活動しており、ペンネームは犬神詩子(いぬがみしいこ)。高嶺は犬神詩子の小説のファンである。時々壁から空也の様子を伺っており、見た光景によって表情をコロコロと変えていく。若干ではあるが男性恐怖症で空也以外の男にはあまり近寄らない。空也のことは「クー君」と呼んでいて、海よりは激しくないものの空也の事を溺愛していて、自分で作った空也の人形を持っている。しかし、空也がいけないことをしたときなどはちゃんとしかってくれたりとただ甘やかすだけではない。ある意味、模範的な姉ともいえるだろう。スーパー辛党でありカキ氷などにも唐辛子をかけて食べる。空也のことやだらしのない帆波のことをしっかりと面倒見ている。過去におぼれてしまったことがあり、それがトラウマで泳ぐことが出来なくなってしまった。占いが得意でよく当たる。「あゆむ」というハンドルネームで空也とメールをするといういわゆる「メル友」関係にもなっている。(ただし、空也は相手が歩笑ということに気づいていない。)また、柊姉妹の中の誰かと(柊海と思われる)ひそかにお互いの正体は知らないもののちょこちょこ情報交換をしている。その相手への報酬は、空也の沖縄時代の写真らしい。部屋にはおかしなものが多く、本人いわく「それらは小説の資料などで買った。ただし、一部は利用している」らしい。口癖は「くすり」。
『つよきす』の椰子なごみとは(声優が同じ海原エレナであるためか)共通点が多く(辛党、1人でいるのが好き、家族が大事、料理が得意等)、きゃんでぃそふとのホームページ内の企画でネタにされていた。

1,2のサブキャラ
秋山衣瑠香(あきやま いるか) 声:木葉楓
1作目から登場。要芽が率いる「柊法律事務所」に勤めている助手。実はファッションデザイナーを目指し、上京してきたのだが要芽と出会うことにより人生が大きく変わってしまう。ドジではあるが、要芽もそこが気に入っている。要芽のことを空也と同じく「お姉様」と呼び、要芽のために毎日仕事に励んでいる。しかし、ミスも多くその後は要芽に冷たくされたり、おしおきを食らう。弟持ちで名前は健太。やたらと不幸に巻き込まれやすく、何か良い出来事か困った事があればすぐさま携帯で弟に連絡をとる。2作目ではある条件を満たせば攻略可能となる。また、2のチュートリアルでは透子といっしょに説明を行っているが、なぜか最後には透子にボコボコにされて終わるというパターンが多い。きゃんでぃそふとのホームページのマスコットキャラを努めていた。また、声が雛乃と同じ木葉楓だが雛乃とは立場も性格も正反対のキャラである。そこのギャップを楽しむのもひとつのゲームの楽しみ方だろう。
柊翔(ひいらぎ しょう)
2作目から登場。柊家の父にして会社の社長。家族の誰もが認めるスケベだが、頭が良く格闘ができるほどの肉体を持つ。娘達には甘く空也に対しては厳しいが、いつか空也には自分の会社を継いで欲しいと思っている。最近要芽が母親に似てきた為、要芽の事を娘ではなく女としてみることがあり、たまに口説いているようなそぶりを見せる。女関係がだらしなくて、いろいろな場所で種をまいている。ちなみに瀬芦里が柊家に来たときには姉たちはその女関係のだらしなさに失望した。
月白透子(つきしろ とうこ) 声:内村みるく
1作目から登場。海の学校の担任教師。誰にでも優しく、生徒からの人気が高いがその裏では・・・。色気があり、気に入った男性がいるとすぐに誘惑する。2ではいるかとチュートリアルの説明を行っている。2では出番が少なく、チュートリアルでそのことをネタに使われている。(ただし、1では巴ルートでしか出番がなかったが、2では少しではあるものの色々なルートで出てくる)透子いわく「男は顔」らしい。つよきすでも同姓の教師が竜鳴館学園にいる(ただし、会話で名前が挙げられるだけ)。
団長(だん おさむ)
2作目(1作目は立ち絵なし)から登場。空也の沖縄での友達。空也の友達もあってやはりスケベ。友達から「だんちょう」と呼ばれている。見た目はワイルドだが、彼女ができたことはない。包茎が悩みで、「むける」「むく」などの単語を聞くと無条件で、「何だと!俺はムケている!」などと反応してしまう。一般常識はわきまえており、人の事情に深入りしないようにしている。
摩周慶一郎(ましゅう けいいちろう)
1作目から登場。「柊法律事務所」の助手兼ボディーガード。摩周財閥の御曹司で、エリートコースを歩み続けている途中要芽に一目ぼれをし、以後彼女の下で働く事を決意する。ただし一目ぼれといっても恋愛ではなく崇拝の対象としてであり、本人の完璧に紳士な性格も合わせて、よこしまな気持ちを抱くことはない。拳法をたしなんでおり、多数かかってきても一掃するほどの腕前。モデルは『機動戦士ガンダムΖΖ』のマシュマー?セロと思われる。『つよきす』でも摩周財閥という会社名が出てくる。
壬生誠(みぶ まこと)声:浅野要二(OVA4巻)
1作目から登場。空也の実の父親。海洋学者。高嶺が惚れている相手。ただし、2では高嶺は惚れておらず、壬生の正体も知っている為完全にお客という感じになっている。翔と同じくかなり女にだらしない。武術をたしなんでおり強い。
マル 声:倉田まりや(OVA版)
1作目から登場。このゲームのマスコットキャラクター的存在。一見かわいい外見をしているが、男に対しては非常に冷たく、電撃で攻撃してくる。元々はイヅナと呼ばれる霊格の高い獣であったが、雛乃に拾われ柊家にずっと居座っているうちに完全に野生としての誇りを忘れ、下着ドロをしたり、セクハラをしたりとただのスケベな生き物となってしまった。ただ、それでも雛乃に対してはとても感謝してるらしく、雛乃の命令には忠実に従っている。鳴き声は「ギュ!!」だが、その後に1の場合はインターハートの、2の場合はきゃんでぃそふとの訳がつく。
柊凛(ひいらぎ りん) 声:北都南
柊家の母親。温和な性格だが、だらしない性格の翔が今でも妻に対してややおびえている辺り、やはり気は強いのだろう。ゲームの中の話より昔に病気で亡くなっている。昔は弁護士をしていて、優秀であり主に弱者の側に就いて弁護をし、助けられた人達も今でも恩義を感じている程人徳があり、要芽も彼女にあこがれて弁護士になった。2では回想で少しでてくるが、その姿は要芽にそっくりである。
与那嶺京(よなみね みやこ)声:海原エレナ
空也が沖縄に居た頃の彼女。見た目が要芽に似ている。1で空也の熟練度が最初から10あったのは、帆波との初体験の他に、京と色々やっていたからである。小説の番外編2?3にも登場。勉強もスポーツも優秀。委員長気質。なお、はっきりと登場したのは2の回想シーンで立ち絵がない声のみの出演だった。

2009年01月27日

Yak-3(Jak-3;ヤク3;ロシア語:Як-3ヤーク・トリー)

Yak-3(Jak-3;ヤク3;ロシア語:Як-3ヤーク・トリー)は、Yak-9の主翼を小型化したソ連の低高度用戦闘機。A・S・ヤコヴレフ記念試作設計局で開発された。

当初は1941年頃より小型の主翼を装備する低・中高度用の格闘戦闘機として開発されていたが一旦中止、1943年からオレーク・コンスターンチノヴィチ・アントーノフ(アントーノフ設計局の創始者)により計画が復活された。新しい機体は当初の機体と異なる水滴方風防装備のYak-1Mを基礎として開発された。主翼はYak-9のものが使用された開発機もあったが、最終的には当初の機体のような小型のものが採用された。エンジンは新型のクリーモフ製VK-107が装備されるはずであったが結局間に合わず、VK-105PF2が搭載された。実戦においては最も優れたソ連戦闘機とも言われたほどの働きを残した。武装は12.7 mmのUBS機銃1?2門と20mmのShVAK機関砲1門であった。生産は、ロシアとウクライナで行われた。
ハンド パーム ドシア バンス ソルト オース サイバ レスト ソナー プラハ デイする 未来の喜び 足跡 せきりん シーツ 金乃竹 ブルーロー ダンエス サイエン パネル 風の華 ファイア レーション フレット リファレンス マルチーズ キールサエ ヤグルマ草 平核無柿 バイバイ オースチン はそく トウヒ ラスト フレーク ヒストリー デコル かおう 百の城 イヤー ケイブ ならたけ ワインリス ユーロス 沖の石 クイック たてじま なみがさね 汽車ポッポ モノローグ

オリジナルのYak-3
Yak-3M(オリジナル機とはエンジン周りや風防、降着装置が異なる)
Yak-3M(オリジナル機とはエンジン回りや降着装置が異なる)Yak-9T同様に37 mmのN-37機関砲と20 mm機関砲各1門を搭載するYak-3T(Як-3Т)も開発されたが、エンジンのオーバーヒートの問題が解決されなかったことなどから量産はされなかった。また、当初の計画通りにVK-107Aエンジンを搭載した機体も開発されたが、結局このエンジンはYak-3の機体には適さないとされ、少数が生産・配備されたに留まった。この機体は制式名称も与えられず、単に「VK-107A付きYak-3(Як-3 с ВК-107А)」と呼ばれた。その結果、戦後初期のソ連の主力機は同じVK-107A装備のYak-9Pとなった。一方、複座のYak-3UTI(Як-3УТИ)は生産もされ、のちエンジンを換装したYak-11へと発展した。また、Yak-3にRD-10(ドイツのユモ004の複製)を搭載するジェット戦闘機も戦後開発され、Yak-15として1946年4月24日に初飛行を行った。その他、Yak-3U(Як-3У)、Yak-3K(Як-3К)、Yak-3P(Як-3П)、Yak-3PD(Як-3ПД)、Yak-3RD(Як-3РД)、VK-108付きYak-3(Як-3 с ВК-108)など多くの派生型が開発されたが、いずれも本格的な生産はなされていない。一方、1992年に初飛行を行ったYak-3の復元再生産機Yak-3M(Як-3М)は、Yak-9UMに生産が移行するまでの間、少数が量産された。なお、Yak-3Mはアメリカ合衆国製のアリソン製V-1710レシプロエンジンを搭載している。

スペック(Yak-3)
初飛行:1943年
翼幅:9.20 m
全長:8.50 m
全高:2.42 m
翼面積:14.85 m2
空虚重量:2123 kg
通常離陸重量:2692 kg
発動機:クリーモフ VK-105PF-2 液冷式レシプロエンジン ×1
出力:1240 馬力
最高速度(地表高度):567 km/h
最高速度:646 km/h
実用航続距離:648 km
上昇力:1111 m/min
実用飛行上限高度:10400 m
乗員:1 名
武装:20 mm機関砲 ShVAK ×1、12.7 mm機関砲 UBS ×2

Yak-1(ヤク1;ロシア語:Як-1ヤーク・アヂーン、ヤーカヂーン)は、ソ連で開発された戦闘機。第二次世界大戦中盤の労農赤軍航空隊(赤色空軍)や労農赤色海軍航空隊(ソ連海軍航空隊)の主力戦闘機となった。ナチス・ドイツ軍との戦闘におけるソ連軍反撃の序盤に活躍し、またその後の一連のヤク戦闘機の始祖となったため、ソ連側では「最も偉大な戦闘機」のひとつとして記憶されている。

なお、名称は日本語文献では日本語のローマ字表記に従って「Yak-1」と書かれるか、そのローマ字読みで「ヤク1」と書かれることが多いが、一方で「Jak-1」と書かれることもある。これは、言語によってロシア語の文字の転写が異なることに由来する。ドイツやポーランド、チェコなどの東欧圏では、使用言語の発音表記上の規則に従って「Jak-1」と書かれることが専らである。また、ソ連科学アカデミー(現ロシア科学アカデミー)の採用した正式の転写法でも「Jak-1」となる。一方、ルーマニア語を用いるルーマニアやモルドヴァでは「Iak-1」と書かれる。その他、表記のバリエーションとしては、ロシア語でも他言語でも「ЯК-1」、「YAK-1」などとすべて大文字で書かれることもある。

1930年代末、スペイン内戦やノモンハン事件ですでに性能不足を露呈していたそれまでの主力機に代わる新たな戦闘機の開発が、国内の各設計局に対し命ぜられた。以前より多くの戦闘機の開発に成功し「戦闘機の王様」と呼ばれていたポリカールポフ設計局に加え、ヤコヴレフ、ラーヴォチキン、ミグ、スホーイなど多くの設計局が新型戦闘機の設計に着手した。

1938年11月に第一線級戦闘機の開発を命ぜられたヤコヴレフ設計局では、設計局の頭文字をとったYa-26の開発名称のもと初の本格的戦闘機の開発に取り掛かった。それまでヤコヴレフ設計局ではAIRシリーズやそこから生まれたUT-1 (AIR-14) やUT-2などの軽量飛行機の開発に成功してきたが、かねてより戦闘機の開発に強い関心を持っていたアレクサーンドル・セルゲーエヴィチ・ヤーコヴレフ(Александр Сергеевич Яковлевアリクサーンドル・スィルギェーヴィチュ・アーカヴリェフ、1906年 ? 1989年)は、この千載一遇の機会にそれまでのものとは一線を画する新型戦闘機を生み出そうと努力した。設計された機体には、設計者同士の繋がりからクリーモフ設計局製のエンジンが搭載されることとなった。Ya-26には「26番目の戦闘機」を意味するI-26の正式名称が与えられ、開発が進行された。最初の計画では、1350馬力の中高度用液冷V型12気筒M-106エンジンを搭載して高度6000 mにおいて最高速度620 km/h、着陸速度120 km/h、航続距離600 km、飛行上限高度11?12 km、高度10000 mまでの到達時間9?11分、武装は12.7 mm機銃BSを1 門と高速射撃用の7.62 mm機銃ShKASを2 門となっていた。

I-26初号機であるI-26-Iの組み立ては1939年10月1日にモスクワの第115工場で開始された。一方、搭載が予定されていたM-106エンジンは最初のM-106-Iの組み立てが第26工場で行われ、発表によれば最初の試験が1940年2月に実施され、その後4月には二度目の試験が行われた。しかしながら、このエンジンは完成が間に合わなくなったため、I-26は急遽、同クラスだがやや旧型で出力が1050?1100馬力に落ちるM-105Pを搭載する仕様に変更されることとなった。一方これに伴い武装は強化され、VISh-61油圧プロペラハブ上に20 mm機関砲であるMP-20またはShVAKが搭載されることとなった。主翼下面と尾部の3ヶ所にある降着装置は、主輪の一部が露出する引き込み式とされ、その上げ下げには空気圧が使用された。また、ジュラルミン製分割式フラップもそれ同様空気圧によって作動するものとされた。空気抵抗を減ずるため、グリコールを使用するラジエーターと潤滑油冷却器は主翼後縁下面に取り付けられたダクト内にまとめて収められた。I-26-Iのキャブレター空気取り入れ口は、機首部分下面ではなく主翼付け根下面に取り付けられていた。

I-26-Iの組み立ては12月27日に完了し、モスクワの中央飛行場(Центральный аэродромツェントラーリヌィイ・アエラドローム)へ送られた。完成したI-26は、それまでのポリカールポフ風の幅の広い寸詰まりの小型の胴体をもったソ連戦闘機とは一線を画す、優秀な速度性能を想起させるスマートな外貌をもって登場した。そのため、工場員からは「クラサーヴェツ」(Красавецクラサーヴィツ)、つまり「美男子」と渾名された。

I-26-Iは、年の明けた1月5日より飛行試験に入り、1月13日には初めて完全な飛行を果たした。試験飛行における操縦は、試験工場の主任パイロットであるユリアーン・イヴァーノヴィチ・ピオントコーフスキイ (Юлиан Иванович Пионтковский) によって行われた。兵装や無線装置は搭載されずに行われた初飛行では、当時一般にまだ技術的に完成域に達していなかった引き込み式の降着装置も、雪氷の悪条件のなか順調に作動した。新型機の試験は緊張のなか続けられ、月内に10回の試験飛行が遂行された。だが、燃料系統が計画通りに働かないという事態が発生した。つまり、燃料系統のアルミニウム配管に疲労破壊が多発し、そのために飛行中に火災が度々発生した。また、空気圧系統も不調で、機銃射撃ができなくなったり、スライド式操縦席覆いが途中で引っ掛かって閉まらない、あるいは開かないということもしばしばあった。ピオントコーフスキイは、試作機体を守るために15回もの不時着陸を余儀なくされた。結局、再三に亙り燃料系統は作り直され、異なる潤滑油用ラジエーターが試された。ベアリングの過熱のためにエンジンは3度交換された。しかしながら、I-26-Iは成功しなかった。4月27日、I-26-Iはついに墜落し、ピオントコフスキイの生命とともに機体は失われた。

2号機であるI-26-IIは、I-26-Iの墜落以前の3月26日に飛行状態となった。一方、4月11日には二人目のテストパイロットセルゲーイ・アレクサーンドロヴィチ・コルズィーンシチコフ (Сергей Александрович Корзинщиков) が試験に迎えられた。工場試験で1機種に対し複数のテストパイロットをつけるのは、これが初めてのことであった。I-26-IIには、I-26-Iの試験で明らかになった欠陥を修正するための多くの改善点が盛り込まれていた。潤滑油冷却器は主翼付け根下面から機首の下へ移され、キャブレター空気取り入れ口を主翼付け根に分割、胴体幅はキャビンの後方で従来より拡大された。垂直尾翼の翼弦も広げられた。また、機体の軽量化と生産性と整備性の向上のための構造の簡略化として、降着装置のうち尾輪の引き込み装置を廃して固定式とした。

I-26-IIは、5月1日のメーデーで初飛行を行った。I-26-IIはコルズィーンシチコフの操縦により602 km/hの最高速度を記録したこともあったが、通常は590?595 km/hに留まった。試験はコルズィーンシチコフのほか何人かのテストパイロットによって行われた。その後、I-26-IIは、1940年6月にはI-180やI-28(Yak-5の試作名称)、I-200(MiG-1の試作名称)、I-301(LaGG-1の試作名称)と比較試験され、模擬戦において優れた成績を出した。

I-26-IIの試験は赤軍航空軍科学試験研究所 (NII VVS KA;Научно-испытательный институт (НИИ) ВВС КА) へ移され、6月10日より「ソ連英雄」ピョートル・ミハーイロヴィチ・ステファノーフスキイ (Петр Михайлович Стефановский) らによって厳しい国家試験が継続された。しかしながら、差し迫った戦局からその実戦配備が急がれ、機体は完成の域に達しないまま量産へと向かっていった。12月9日に試験されたI-26-IIIでは、M-105PエンジンとVISh-61プロペラが組み合わされた。この試験では基本的に好成績を収めたが、なお組み立てやシステムの不具合を指摘され、それらを解決した上でI-26はYak-1の正式名称のもと量産に移されることとなった。